NNT既卒のくそったれ日記

日常のプチモンクをつらつらと

2000年生まれ地方都市育ち、なんか色々と振り返ってみる(超絶長い自語り)

2000年生まれ、一人っ子、両親は非正規、叔父叔母はいつの間にか離婚し、幼少期にプリキュアごっこしていた従兄弟が知らん間にいなくなっていた小学生時代。DSを電線に向かって掲げ、赤外線通信で持っていないゲームのデータを取得し、全く知らん人と知らんソフトのゲーム対戦をやっては、ぼろ負けしていた。トモコレでクラスメイト全員を作成し、住民同士のやり取りで友達とワーキャー遊んでいた。休み時間は、ふざけて友達とピラメキ体操をやっていた。ウォーリーをさがせかいけつゾロリ、都会のトムソーヤ、バッテリー、黒魔女さんが通る、などの有名な青空文庫や児童文学は朝の読書の時間で読んでいた。習い事は家から徒歩10分のところにある公文に通っていた。

小学生低学年、苗字が変わりあだ名が変わる子、転校する子が多かった。とにかく走って遊んではずっこけまくり、膝、肘から血を流したり、おたくふく風邪で顔がパンパンに腫れたりした。

小学校中学年から高学年は、東日本大震災の影響で、ACジャパンのCMが学校で大流行し(ぽぽぽぽーん)、廃れ、テレビの話から遊戯王ポケモンWiiなどのゲームの話をする子が加速度的に増えた記憶がうっすらある。

夕方アニメはポケモン銀魂、ナルト、コナン、朝はトリコ、ワンピース、ペンギンの問題ポケモンサンデーを見ていた。

地域的に中学受験を行う子はクラスに一人二人で何も考えずそのまま公立中学に進学。

2010年代に入ると、ガラケー組からちらほらデカipod購入の自慢話が増え、中学3年になるとクラスの半分がガラケーを卒業していた。初代iphoneipadを持つ者をガラケー組が囲み、指タッチで画面が動く、拡大できる、無料でゲームができる、ワンセグ消えた、吹き出しのやりとり(LINE)など、最先端に触れる感動を共有していた。

中学時代は動画コンテンツをYoutube、ニコニコ、FC2、ひまわり、Dailymotionと色々な動画媒体を学校のPCで勝手に見ていた。それをまた勝手に他のクラスメイトに学校のPCで共有していた。クラスメイト各々がお気に入りの動画媒体を持っていた。学校のパソコンの設定も色々緩かった。(もしかしたら、うちの学校が特殊だったのかも)

またこの頃にエヴァQ公開による一部の本格的なオタク化、図書館に置いてある電撃文庫や少年漫画、深夜放送の黒バス、ヘタリア、うた☆プリから本格的にオタクになる同級生がちょこちょこ増えていく。またアイドルオタクは嵐かAKB48のどちらかであった。

部活は卓球部に所属し、最後は県大会で終了。サッカーや水泳などでプロを目指す一部のクラスメイトは外部のクラブに所属。現在、中学時代に外部のクラブで活動を行っていた生徒何人かはプロとして活躍している。

また、この中学時代、主に塾や習い事に通っていた学生が主体となって他校生と情報交換を行い、本当にアカン教師が近隣の学校を含めて生徒(主にしっかりしていた生徒会)に把握されていた。

 過去に他校で酷い事例があったらしく、私自身の住んでいる地域周辺の学校はどの生徒会も内心点上げ目的が第一ではなく生徒の安全第一の組織として教師に依存しない自治組織が完成していた、らしい。

これは今思い返すと本当に運が良かった。SNSiphoneを世間が使い始め、情報リテラシーなんてほぼ存在していないスマホ初期の時代に思春期を迎えた私の学年が生徒間、また教師と生徒間での大きなSNSトラブルがなかったのは間違いなくこの生徒会が機能していからだと覚えている。ありがとう、生徒会。

そんなこんなで高校受験を迎える。

部活を引退してから、主要駅の近くの塾で夏期講習、冬期講習を受講し、中学生なのに難関大学を目指す特進クラスに公文でやっていた科目だけ運よく入ることになり、そこで自分がドアホやったと知る。

この塾で特進クラスに行ったことで人生で初めて経済格差が実際どのようなものかを体感する。小学時代から塾に行き、名門私立中学に行った同級生の勉強量の凄さやエリート意識、謎の夏休み旅行自慢が行われ、大学目標や人生のキャリア設計の話がポンポン出てくる。天使のような可愛らしい子ばっかりだが、数年経てば確実に美男美女になると思われる顔の良い、そして性格の良い同級生ばかり。話を聞くと、だいたいが祖父母からのガチ金持ちの方達ばかり。みんな性格が素晴らしい。さらに運動神経も高い。でも、時々話の中で感じるちょっとした価値観の違いから悲しくなったのは覚えている。結構ショックだったのはハリーポッターを知らないと言われたのと、池乃 めだかのネタが通じなかったことだ。その特進クラスでは最下位をたたき続け、そのまま終わった。

そして公文もこの中学時代でやめた、ある科目はJフレンドになったりした。

ここで中学時代終了。

 

高校入試では過去問をちょろちょろ解いて対策し、自身の適正偏差値の公立高校を受験。ちょろちょろ勉強で受かったのは間違いなく公文での勉強貯金込みである。

そして、この少子化時代には珍しい超マンモス校に入学。全学年合わせて1000人超える高校に入学。念願のスマホを持つ。

 

この高校時代、2010年後半になるとほぼ現在と変わらないスマホの所持率となり、学生もガラケーではなく全員がスマホを所持し、LINE、インスタ、youtubeのアプリ時代に突入する。

また当時、ラブライブが爆発的に大流行し、アニメ、声優に対するオタク偏見が学生同士では、なくなった。この頃にFGO刀剣乱舞などの、2022年現在まで続いている長命コンテンツのアプリが始まり、学生のだれもが推しを持ち、特に配慮もなくアニメ的なコンテンツを自由に語れる雰囲気になっていた。

個人的にはキスマイ宮田氏の力もとても大きかったと思っている。ジャニオタとアニオタの微妙な空気間の違いがこの宮田氏の存在のおかげでなくなっていた。偉大である。

ありがとう宮田氏。

 

高校では自宅からの通学時間が長く部活には所属しなかったが、マンモス校とあって広範囲の地域の生徒が在籍してたため、もめ事も多々あり、カルチャーショックも沢山受けた。

人数が多すぎる故にスクールカースト陰キャ陽キャも何もかもがぐちゃぐちゃだったが、基本的には各部活ごとで生徒同士のグループが完結していた。モテる奴はどんなのかというと、顔が良く、背が高いシュッとしている子ではなく、トークスキルがとにかく高い、ボケもできるし自分をうまいこと人にいじらせて常に誰かを笑わせる、プロの吉本芸人のような学生がバレンタインデーに少女漫画のような紙袋一杯のお菓子を貰っていた。そこに見た目など関係なかった。

女の子も、可愛い感じのフワフワした女子ではなく、ツッコミ能力が高い姉御肌な女子がモテていた。下校中、彼女の鞄と自分のリュックの両方を持っている男子生徒を何度か見かけたが、学内の有名なカップルはだいたいこのタイプであった。

あとモテている生徒は、男女共、おばちゃん先生に特別気に入られている生徒が多かった。

この高校の文化祭で常におちゃらけている、幼少期からお笑いが日常に根付いている人達の漫才を見ていたからか、勉強をしてお笑いをやっている最近のテレビのお笑い芸人を笑えなくなってしまった。この頃から、上沼恵美子のお笑い感覚を理解しようとしないお笑いテレビは嫌いである。

 

学校では制服の一部私服(ほぼ私服)がOKだったから、ゴスロリや謎に際どいファッション男子、ジャージ組、工業の科目や芸術の科目取得が多いつなぎ組、ギャルなど、生徒達の見た目はカオスそのものであった。先生も、ボカロPの先生、有名同人サークル所属の先生、バンドマンの先生、常にいかせんべい食べている先生、元モデルの先生、おかまの先生、社会人出身の先生、鬼嫁のせいで家に居場所がないと言う先生、妊娠している先生など非正規の先生も含めて100名以上の先生が在籍し、色んな先生がいた。多くの先生がうちの学校に来ると、その自由さと緩さから他校に行きたくないと授業中にうだうだ言う先生が多かった。ちなみに一クラスにつき担任は2人いた。

この学校では飛び抜けた個性を持っている生徒も沢山いた。学校に来なくなったクラスメイトもいた。たまーに留年する生徒もいた。

 

高校二年生の頃に、センター試験を受けたくないのと一般受験適正がない、という理由から推薦を目指し、アホだったので定期テスト命の勉強をしながら高校生活を適当に送ることを決める。

アプリゲームはディバインゲート、消滅都市、アイナナ、ラブライブをずっとやっていた。ディバゲがサ終した時のショックはまだ消えていない。

そんなこんなでわちゃわちゃ過ごし、大学受験が到来。

駿台で夏期講習を受講し、模試を受け撃沈する。

高校では有名私大の指定校推薦枠が各大学2枠ずつあり、事前にその指定校枠志望者同士でグループを作り成績の開示や、部活の賞歴などを話し合って先に指定校枠の子を生徒同士で決め先生に報告していた。学内での苛烈な争いもなく指定校組が静かに受験を終了していた。この指定校組から校内が一気に受験モードに入る。

私は家計上、家から通える国公立以外の進学は不可能で落ちたら高卒で働くことが決定していたため、学校の特定科目の成績、小論文、面接、大学独自の学力測定試験、が行われるセンター試験を利用しない公募推薦型の入試を利用し、入試費用を最低限に抑え、真冬直前に大学受験を終了した。学士号は欲しかったのだ。

駿台では同じ高校出身で自身と同じ志望校に進学していたチューターを見つけ、連絡を取り、事前に大学の様々な情報を貰っていた。そのお陰で無事面接と小論文を乗り気ることができた。ありがとうございました。

一般受験組は、地域的に両親が中国出身や韓国出身など東南アジア諸国のハーフやクォーター、在日の学生が多かったため、センター試験も学部入試も英語選択の子が極端に少ないという、一般的な高校生の科目選択ではない入試のやり方をする生徒が多かった。

商売家系の友人達はとにかく簿記が強く、センター試験で簿記選択、英語ではない言語を選択、その他科目という構成で難関校を突破していた。

 

この高校生時代、自分が一般入試では大学に行けないと確信した出来事が一つある。

某N校生の出会いである。一週間悩んだ数Ⅱの応用問題を1秒で解かれた上に、ぶち切れ指導をされ、期間限定で数Ⅱの先生をしてもらった。その結果、指導後の駿台模試で数Ⅱ無双。偏差値が20上がる。

自助努力の限界を感じる。

この出来事から、一般入試は無理と悟る。そして得意だと思っていた理系科目に対する自信を完全喪失し文転。浪人生と闘える武器を所持していなかったことを知る。

また学力は先生の教え方や先生の学力にも大きく依存することをN校生との出会いで痛感する。

このN校正は現役で東大に行く、やばたにえん人間であったことを後々知る。

そして高校生終了。

 

 

大学生になる。

高校よりもさらに長い通学時間のため、一日の流れが電車がくる30分前に起床→通学→講義→下校→就寝→起床のルーティーンに突入。通学時にスマホで課題レポートを済ませ、余った時間は寝る。必修単位がそこそこ多い学部だったため一限出席がなかなか辛かった。

高校の時のような余白時間が極端に減る、というか無くなる。

常に通信制限のスマホとなり、スマホでゲームも何もできなくなる。

アルバイトは土日の飲食ホールで定期代費用+学費の一部を稼ぎ、さらに奨学金を少しだけ借り学費を支払う。

みたいなのが2年続く。

大学では下宿組が1割以下でほぼ通学組で構成されていたため、全員が電車とバスの時刻表に追われ、本当に金と時間のない学生しかいなかった。通学組の中でもさらに家が遠い一部はバスと電車で2時間プラス車で1時間という猛者もいた。通学組は県内の主要駅近郊出身勢なので何か特別に大学デビューするみたいな子もおらず、個人的には学部キャンパスの雰囲気が高校の延長という印象であった。

所属していた学部の女子割合が極端に高く、そもそも男女の恋愛が学部内で生成されなかった。一般的な大学生のサークル所属やボランティア活動をしている学生が数えるほどしかおらず、キャッキャウフフしてたのは同大学の他学部生で下宿組が多い学部のみであった。

恋愛とか友達と遊ぶにも金と時間と単位が無いなあというのが、大学の友人と一番話した会話内容であったと思う。

自分の周りの友人や研究室の学部生は、学費+通学費+資格費用を自分で払うしかない学生のみで、遊ぶどころではなかった。

 

そして、何故か同じタイミングでドバっ人生問題が出てくる学生が増える。一時期、昼休み時間に誰と話しても「どうしよかねぇ」という同じような会話しかしていなかった。

学部2回生の頃である。

高齢出産両親の身体介助的な問題や、定年後の熟年夫婦離婚、別居話、祖父母の介護問題、財産問題などがあちこちから出始めるのだ。

わが家ではこのタイミングから祖父母の介護が本格的に始まり、さらに親戚が重めの欝になり、ツーコンボだどん!となる。

高齢の両親を持ち、身体介助が必要になったがさらに下に兄弟姉妹がいる友人は、常に目の下のクマがパンダであったし、様々な行政手続き等で疲弊しきっていた。

みんな人生始まったなぁと思った瞬間であった。

小中高に比べて長かった夏休みや冬休みはバイト(奨学金借金返済)で消えた。

 

大学の講義では出席代行を頼んだりして沢山遊ぶんだぁと謎の理想を抱いていた高校生の夢は幻であったことを知る。

仲の良かった通学方面の違う友人や下宿組の友人に出席代行を頼むことが度々あったが、それはだいたい電車の人身事故、長い信号待ち、車両点検、台風、雪、豪雨、タイヤのパンクetcで学校に当日中に辿り着かない、講義に間に合わない場合のみであった。各講義の3回or5回まで休んでOKは学校に辿り着かない回数で潰れた。

通学組が多すぎて、下宿組が出席代行を一部ビジネス化していた。有料である。

通学組が学校に辿り着かない日は同じ学部生の大半の学生が同じく辿り着かなかったから、代行を頼むのにも難しい状況が多かった。

そんな感じで、大学生活2年が終了。

 

 

そして学部三回生。

コロナ襲来。

喜びに満ち溢れたオンライン授業であったのは始まって講義2週間目まで。

3回生になり専門的な内容に入ったのに講義内容の解説がペラく感じ、課題だけが増加する、質問もできにくいという環境。

慣れてからは身体がとても楽になったが、本来直接指導が必要な講義もいくつかあり、学部で身に着ける予定だった専門的な内容の完全な理解は最後までできなかった。

またコロナの影響で働いていた飲食バイトは潰れた。

しかし、通学が消えたことで平日も近所でアルバイトができるようになり週3以上のバイト選択ができるようになった。せかせかとお金を貯め始める。

 

 

夏になり就活がやってくる。

ここで、とある絶望に気付く。

大手新卒サイトの新卒募集の勤務地が東京しかない。

というか東京しか仕事ないのかというほど東京以外がない。

コロナが猛威を振るっていた3回生、インターン募集も例年ならあるのにほぼなく、あっても東京のみでインターンを諦めバイトで金を貯め奨学金の借金を少し減らした。

この時期に本格的にVtuberにはまり、昼夜逆転人生が完成する。

そして研究室に入り、卒論執筆に取り掛かるがテーマにごりごり悩む。

穏やかな研究室の先生から、4回生になってからでもいいよという仏のような言葉を頂き、思考を4回生の未来の自分に託す。(このせいで4回生は卒論に苦しむ)

 

3回生冬。就活始まる。卒業単位を揃える。

まず算数が出来ないのに、何故か数学が出来てしまった人間である自分はSPIやWebテストに全滅する。

つるかめ算のような文章問題が極端にできないが数式問題は解ける。このスタンスで学生時代ごり押しで乗り切ってきた自分にとっては就活無理の一択になる。

この段階で新卒就活をほぼ諦める。

先輩方からはWebテスト代行の利用や、友人数人で一緒にテスト問題を解く方法を教えて貰うが不正発覚もコロナ感染も怖く、その辺の方法を諦める。

大学の友人たちと上京をするかの相談を始める。上京組は、関東の地元に戻る下宿組と、どうしても行きたい企業がある者達のみであり、上京費用を計算し、とてもではないが高すぎ無理と判断し上京は、なしの方向で就活を進める。

面接に進む企業が奇跡的に片手で数えるほど出始めるが面接段階で説明会の話と違い上京が必須の企業が多すぎて、色々と諦める。

数回の面接で、関東組のみが次の面接ステップに進んでいること知る。また、この就活で顔面偏差値至上主義の世界でもあることを理解する。私達若者同士よりも、会社の人事の方が見た目至上主義であることを体感する。

キラキラしたガクチカを持っているのはキラキラしたお顔とスタイルを持っている人達ですげえなぁと思いなが面接官の光っているおでこと頭を眺めて初めての面接は終了した。

オンラインのグループ面接で話した学生のほとんどが関東在住で地方都市の若者がSSRになりつつあることを知る。

就活用の資格勉強を始めるが、ほとんどの資格に落ちると同時にコロナの影響で両親の収入が一気に減り、本格的にバイト生活になる。

この頃、見目が良い大学の友人は男女共、短期間だけ夜の店で働いていることを知る。

TOEICを受験し、大学でも英語の論文を読む機会が沢山あったにも関わらず、高校までの文法知識がほぼ抜けきっていることを自覚する。

さらに他の資格を勉強し義務教育時代に学んだ内容がほぼ頭から抜けきっていることを知る。

もともと勉強はあまり好きではないが、この資格勉強で自分が勉強に対する吸収率が、すこぶる悪い人間であることを理解する。

この時期に国から支給された10万円は大学の学費に消える。

 

4回生、コロナが収束し始める。卒論に悩む。就活が終わる。

奇跡的に春先に一社だけ内定を貰うが、夏の研修段階でブラック、業務内容も話が違いすぎる、まさかの住宅補助なしの上京ありで内定辞退。NNTが誕生する。

NNT誕生と同時に、卒論の中間発表のタイムリミットが迫り、就活を完全に捨てる。

とりあえず1章だけ形にした論文の上に大量に引かれた「赤ペン先生」と共に、必要資料を見直したり、卒論の書き方を詰め込みで学び直したり、何故か矛盾する数値を無理やり見直したりして、大学生の卒業論文を論文にし始め、秋まで終了する。

中間発表終了。いざ見直すとなんともペラペラな内容であったが、中間発表で一からやり直しをくらっている学生がいると知りガクブルする。

冬になり、卒業論文一色の生活になる。研究室にこもり、間に合わんのじゃーと言いながら文字数を増やす作業を始める。

この時期に公務員試験を受験していた友人達からコロナの影響で試験全滅した報告を受ける。NNT仲間が増える。

年が明け卒業まで3ヶ月を切る。ケツも切れる。

椅子に座らず立ちながら卒論のまとめに入り、最終発表の内容をまとめ上げる。

卒論提出期限1週間前、卒論終了する。

その2週間後、最終発表が終了する。

卒業決定が決まる。

この時期にキャリアカウンセラーから進路届の未提出の連絡を受ける。

NNTであったことを思い出す。

卒業式直前に本格的に卒業後の就職先を探し始めるが、なんと突然コロナの影響で親戚が亡くなり、存在すると思っていなかった財産問題と介護問題が発生する。

コロナで行政手続きも何もかもがわちゃわちゃとし、親戚間で揉め、そのままドタバタしたまま、感慨深さゼロで卒業式を迎える。

卒業後もドタバタが1カ月続き、ようやく落ち着いた頃にNNTになったことを再度自覚。

税金の通知書が来ることでいよいよヤバいことを知る。

就活を再度始めるが、なかなか上手くいかず、フリーターで生活し、税金と奨学金(借金)の返済生活が始まる。

 

こうして

NNT既卒が誕生する。

 

ここまでで22年、小中高大と仲の良い友人も出来たが、ブログで長々と書いて振り返ってみると常に何か漠然としたものに追われたり、上手いこと目の前の問題をくぐり抜けること優先で、自分の中で何かを成し遂げたいなどの大きな感情も夢もほぼ持たず、特に具体的なことを何も考えずに生きてきたなという感想が出てくる。

運がいいことに大きな怪我も挫折も全くせず五体満足健やかに生きてきた。

両親も父親は多少癖のある人だが、蝶よ花よと育てられてきた。

高校も大学も豪運で乗り切ってきたところが大きい。

友人も意地悪するような子と出会ったことがない。良い子ばかりである。

本当に豪運で生きてきている。

周りの友人も彼氏、彼女が欲しいという雰囲気を持つ子がいなかったため、遊んだりはしてきたが恋愛的思考になることもそのような感情も芽生えることはなかった。

現在も連絡を取っている友人で彼氏や彼女を持っている子が一人しかいない。

モテたこともなければ、バレンタインデーをあげたこともない。

友人と映画行ったり、ゲームで遊んだり、カラオケ行ったり、競馬したり、遊園地行ったりはしているが、大学の友人もほぼ全員が実家暮らしであるし、何をするにしても金がかかることから、「稼ぐ」ことが第一優先の子が多く、良い意味でさっぱりとした関係性の友人が多い。バイト先の友人も然りである。

 

高校でも大学でも恋愛している子を見ると、どこにそんな体力とお金と時間があるのかと仲の良い友人達と話したりしていた。

かっこいい子や可愛い子を見ても顔が良いという感想以外がなく関係性云々をどうかしたいと思ったことがない。推しに対する感情に近いものは芽生えるがそれをどうにかしたいとは思わないのと同じである。

小さい頃から家には猫や金魚やバッタやカブトムシと生き物が沢山いたり、友人とオンラインゲームをやったりしていたおかげか本気で寂しい思いをしたこがないと言うのも大きいのだろう。

ぼんやりしたまま大人の階段を上り、やばいことに気付いた22歳。

生産性が高い専門的な分野の学問を専攻せず、文化や古典、近代史、経済学、法律、建築史、文学など雑多な学問を広く浅く学んだ大学生だったが、とても楽しかったし、教授が紹介してくれる書籍も面白いものばかりだったので大学に行ったことに対する後悔は全くしていない。

 

 

 

しかしNNTである。

 

 

 

人生始まりました。